記事と写真:ピーター・コーダス
訳:山田寿子
(以下は英字新聞のJapan Timesの記事に基づいた翻訳で西崎さんの引用句は彼の実際の言葉と全く同じではない。この翻訳は家族や友人やバンドのファンにむけたものでオフィシャルなものではない。)
広島の原子爆弾ドームの影、ここは以前原爆投下の荒れ地で、薄暗い音楽の会場がある。パンク魂はライブショー後のタバコの煙のように漂う。
1月28日、Club QuattroでNever Againはパンク、メタル、ロックを含む他の8つのローカルバンドのボーカリストと共にクラシックパンクミュージックのカバーを披露して20周年を祝った。
これは20年前には実現できなかった。
「今までは音楽のジャンル間に壁があった」と、Never Againのブロンドヘアー、ベースプレイのヴォーカリスト、西崎よしのり(Nisshing-Boy)は説明する。しかし、同じ場所で20年間演奏した後、壁が崩壊するのは時間の問題だった。
Never Againのゲストヴォーカルには、AI、Dr. Breaker、Pistons、Asphalt、Concre、Down Hill Project、Ace in the Hole、と今や伝説のOrigin of [M]のヴォーカリストが含まれている。これらのバンドの多くは広島のナイトクラブでバースデーバンドのNever Againと同じくらい長くバンド活動をしている。
ミステリアスな汚れや独特の香りのするパンクの歴史に精通している人は、Never Againという名前は特に広島のパンクのバンド名に最適なことはよく分かっている。1981年、イギリスのパンク、Dischargeは原爆の余波を描いた4つの俳句のような歌詞からなるNever Againをリリースした。それぞれの歌詞の後に「Never, Never, Never again!!!(二度と、二度と、二度と繰り返さない!!!)」という残酷な叫び声が続く。
驚くべきことに、バンド名の選択は全くの偶然だった。
「バンドをするために名前が必要だったし、そのときたまたまDischargeのアルバムのカバーがプリントされたパーカを着ていた」と、当時16歳だった西崎は回想する。その言葉を指差し、「僕らはNever Again!」と言った。当時は意味が分からなかった。のちに、平和公園を海外のパンクバンドに案内すると、そのメンバーはDischargeのソングの反核メッセージを説明してくれた。
バンドの名前は偶然だったけれど、西崎のバンド名の選択はとても幸運だった。
「僕の祖母は被爆者だ。パンク音楽を制作する中で、彼女がこれまでにどんな事を経験してきたかをよりよく理解することができた」と彼は言う。
西崎はまた、Never Againの音楽は過去20年間でよりポジティブな方向に成長したと感じている。
「以前はもっとパワフルで怒っていた」、拳を上げていた。「Stay Punk」と、彼の指に刺青されている。しかし、彼が2年前に父親になったとき、視点は変わった。 「怒りはまだ残っているが、怒っているだけでは十分じゃない。僕らはそれを超えた何かを創造していかないといけない。」
西崎は最近、インドネシアのパンクバンドMarjinalと出会い、そのバンドがジャカルタのホームレスの青年を援助してる事実を知り、触発された。
「Never Againも彼らのように何かをしていきたい。すべてのハードコアバンドには子供たちがいる」と彼は言った。楽屋の中では小さな男の子がタトゥーの描かれたドラマーの腕の上に座っている。 「バンドとファンが集うところで、家族も一緒にパンクシーンに参加してほしい」と西崎は言った。
Never AgainのミュージックはDiskshop Misery (www.diskshop-misery.com)から購入できる。ライブ情報やバンドへのコンタクトはこちらから bit.ly/2jkQ3ji。